神戸市営地下鉄海岸線を歩いてみました
今回の旅のテーマは?
今回は、神戸市営地下鉄海岸線のルートを、三宮・花時計前駅から新長田駅まで歩いてみたいと思います。
神戸市営地下鉄海岸線は、2001年に開業した、全長7.9kmの路線です。三宮・花時計前駅と新長田駅で神戸市営地下鉄西神・山手線やJR神戸線と接続しています。
神戸市営地下鉄海岸線は、開業から毎年赤字が続いており、黒字化が課題となっています。今回の旅では、沿線の魅力あるスポットも探してみましょう。
三宮・花時計前駅~ハーバーランド駅
いよいよ旅の始まりです。三宮・花時計前駅の上には、当事務所のある井門三宮ビルがあります。
三宮は、JR、阪急、阪神、神戸市営地下鉄各線の乗り換えが可能で、神戸市の中心的な場所になっています。最近では、都心・三宮再整備構想が進められており、さらに魅力のある街へと進化を遂げる予定です。
次の駅に向けてしばらく歩くと、三宮神社にたどり着きます。三宮神社は、生田神社の周囲に創建された生田裔神八社の1つです。三宮神社のほかに、一宮神社、二宮神社、四宮神社、五宮神社、六宮神社、七宮神社(後ほどご紹介)、八宮神社があります。現JRの三ノ宮駅は、もともと、三宮神社の近く(現在の元町駅付近)に所在していました(後に現在地に移転)。三宮神社は、三ノ宮駅、そして、三宮という地域名の由来になっています。
三宮神社付近は、歴史的には神戸事件の発生地として知られています。神戸事件とは、戊辰戦争の開戦後、1868年に、備前藩の兵が隊列を横切ろうとしたフランス人を無礼な行為として槍で突き、負傷させたことが発端で、銃撃戦に発展した事件です。この事件は、外交問題へと発展しており、伊藤博文も諸外国との交渉に大きく関わりました。
三宮事件から間もなく、旧居留地・大丸前駅にたどり着きます。大丸は、もともと京都の呉服店が始まりです。大丸神戸店は、1913年(大正2年)に創業し、1927年(昭和2年)に現在の場所に移転しています。元町中華街も近く、多くの人でにぎわっています。
ここからは、元町中華街から少し南、栄町通を歩いていきます。栄町通は、かつては金融街として栄えた街でしたが、震災で大きな被害を受け、かつての街並みは現存していません。ただ、その面影を、次の目的地、みなと元町駅で見ることができました。
みなと元町駅にたどり着きました。この駅は、旧第一銀行神戸支店の外壁を活かした重厚感のある外観で、近畿の駅百選にも認定されています。かつての街の賑わいが思い起こされます。
みなと元町駅からハーバーランド駅に向かう途中で、神戸中央郵便局にたどり着きます。神戸中央郵便局は、東京・大阪に次いで3番目の中央郵便局となりました。そのルーツは、1872年(明治4年)開設の「神戸郵便役所」にさかのぼります。
ハーバーランド駅にたどり着きました。この駅は、JR神戸駅と接続しています。ここからは、国道2号線を道なりに進んでいきます。
ハーバーランド駅~中央市場前駅
国道2号線をしばらく道なりに歩くと、西出鎮守稲荷神社にたどり着きます。境内には、平敦盛の兄である平経俊を祀る五輪塔があります。平経俊は、一の谷の戦いにて、この地で戦死しました。
ここからは、国道2号線から離れて、和田岬へ向かいます。
先ほどご紹介した生田裔神八社の1つ、七宮神社にたどり着きました。七宮神社の由来は不詳であるものの、平安時代の記録に登場するほどの由緒ある神社です。
中央市場前駅~和田岬駅
中央市場前駅にたどり着きました。この駅は、神戸市中央卸売市場の最寄り駅です。神戸市中央卸売市場内には飲食店街があり、一般の方でもおいしいご飯を食べることができます。その向かいにはイオンモール神戸南があり、ファミリー層にはなじみの場所となっています。この付近には、かつて、兵庫城がありました。兵庫城跡の一部が、後に初代兵庫県庁になりました。
神戸市中央卸売市場から少し進んで右折すると、初代兵庫県庁の姿を再現した「兵庫津ミュージアム」があります。初代兵庫県庁は、兵庫城跡であり、江戸時代には大坂町奉行所兵庫勤番所であった屋敷が用いられました。現在の県庁とは異なり、庭園のある趣のある造りになっています。純和風の建物に西洋式のテーブルが置かれた知事室が印象的です。初代兵庫県知事を務めたのが、神戸事件後に交渉に関わり、後に初代内閣総理大臣となった、伊藤博文でした。
伊藤博文は、日本で初めての憲法である大日本帝国憲法の制定にも大きくかかわっています。1889年(明治22年)に制定された大日本帝国憲法ですが、その原本はだれでも簡単に見ることができるのをご存知でしょうか。「国立公文書館デジタルアーカイブ」というサイトで、「大日本帝国憲法・御署名原本」という資料を検索すると、大日本帝国憲法の原本を写真データで閲覧することができます。「枢密院議長伯爵 伊藤博文」という署名も見ることができます。「国立公文書館デジタルアーカイブ」のサイトでは、歴史的な貴重な資料を簡単に閲覧することができますので、ぜひご関心のある方は利用してみてください。
しばらく道なりに歩くと、和田岬駅にたどり着きました。この付近は、三菱関係の工場群があり、工場関係者が利用する飲食店街もあります。和田岬駅は、神戸市営地下鉄の経営を支える重要な駅の1つとなることがもともと見込まれていましたが、利用客の伸び悩みが続いています。
その大きな理由は、競合路線であるJR和田岬線の存在です。JR和田岬線は、JR兵庫駅からの支線です。JR和田岬線は、もともと資材輸送の目的で敷設された路線の一部で、かつては、三菱重工業の造船所ともつながっていました。また、現在の神戸市中央卸売市場に向かう兵庫臨港線とも接続していました。現在は縮小されて、工場への通勤利用者が多い朝と夕方の時間のみしか運行していません。それでも、JRに接続している利便性から、今でも利用者は多く、神戸市営地下鉄の競合となっています。JR和田岬線は、現在ではほとんど見かけなくなった古い国鉄車両が見られることで、鉄道ファンからはよく知られた路線の1つとなっています。
和田岬駅~新長田駅
和田岬駅を過ぎて道なりに歩くと、にたどり着きます。最近では、新型コロナウイルスのワクチン接種会場にも利用されたことから、ワクチン接種のために訪れた方も多いかと思います。最大約3万人の収容が可能とあって、静かな街並みに突如現れる巨大施設に圧倒されます。
ほどなくして、御崎公園駅に到着しました。御崎公園は、かつては、鐘淵紡績(旧カネボウ・現クラシエ)の兵庫工場の敷地でした。兵庫工場は、戦前には鐘淵紡績の経営を支える主力工場でしたが、神戸空襲で大きな被害を受け、その後閉鎖を余儀なくされます。御崎公園の敷地の広さから、神戸の街が工業都市として日本の産業を支えていた歴史がうかがえます。
御崎公園駅からしばらく進むと、兵庫運河にたどり着きます。この辺りは、「兵庫津」として奈良時代から港町として発展してきましたが、和田岬が船の難所とされていました。安全な航行のために、和田岬を迂回して安全に航行することのできるルートとして開削されたのが、兵庫運河です。兵庫運河の建設に大きく貢献した実業家の八尾善四郎は、銅像となっています。
苅藻駅にたどり着きました。ここまで来ると、中小規模の工場と住宅が中心となり、穏やかな時間が流れています。旅が終わりに近づいてきました。
駒ヶ林駅にたどり着きました。近くに「あぐろの湯」というスーパー銭湯があります。今回は立ち寄りませんでしたが、露天風呂もあり、充実した施設です。神戸市営地下鉄海岸線に乗れば、三宮エリアからもすぐに来ることができますので、都会の喧騒に疲れて癒されたいときには、ぜひ気軽に訪れたい施設です。
駒ヶ林駅と新長田駅の間には、様々な商店街があります。再開発が進んでいる新長田駅付近から少し離れると、穏やかな時間の流れる、昔ながらも商店街の風景があります。中でも、丸五市場は、大正時代創立で約100年の歴史があり、現在も現役です。
長い旅を終えて、新長田駅にたどり着きました。神戸市営地下鉄海岸線の沿線は、観光地としての知名度は低いですが、街の歴史を感じるスポットを色々見つけることができました。
神戸にお住まいの皆さまはぜひ、神戸市営地下鉄海岸線に乗って、街の歴史に触れてみてください。
次回もまた、兵庫県の歴史や文化を探る旅に出かけてみたいと思います。